狛江市には「万葉歌碑に集う会」というのがあり、私も会員にさせていただいている。
ご存知の「多摩川に さらすてづくりさらさらと なにそこのこの ここだかなしき」という万葉歌の歌碑が
あることから、その碑の保存維持と歴史的な意味を確認することを目的とした会だ。
歌の内容についての意義は、いうまでもなく多摩川でおそらく苧麻(カラムシ)で織った織物を多摩川で晒して恋しい人や我が子や夫のことを思う歌から、当時の暮らしや人々の思いを引き寄せて理解すること。
そして、万葉歌碑が作られた経緯と再建から現代に至る人々の動きについての研究に意味をおいている。
前者については万葉の時代についての勉強会や歴史散歩などを重ねている。
私はほとんどの会合には参加できないでいる。
この間、なぜ渋沢栄一なのかなぜ狛江のかつての登戸の渡しあたりに最初の万葉歌碑を建立したのか、
なぜ、松平定信公の書をもって歌碑としたのかの疑問がのこり、明確に確認した記憶がない。
しかし、ひとつ前のブログで書いたが、北区の飛鳥山あたりの渋沢栄一や岩崎彌太郎、それにからんでの川田男爵の関係が、この地を舞台にあるのだということが分かり、ここから、先の疑問が溶けそうな気がしている。
折しも狛江市史編纂事業が始まっている。