犯罪被害者の立場を強く主張した裁判となった。
マスコミもかなりの報道をしたし、被害者の遺族である青年は9年にもおよぶ
裁判の経過を家族をなくした身の上で闘わなければならなかった。
最後に、墓前に報告するとのこと。
少年の死刑を報告できるといった。
一方、犯人の元少年には、反省を表してくれれば死刑は望まなかったと言ってる。
被害者がどう生きていけるかが問題だとも発言している。
大変な矛盾を抱えた発言だろう。
決して、被害者がこれから生きていける判決でもなんでもない。
空虚なむなしい差し戻し裁判であった。
被害者の立場を主張したことを「反省を現してくれれば死刑など望まなかった」
と言い換えた。
反省を表さなかったから死刑を望んだということだ。
だったら反省を表せばよかったのか?!
私は、元少年の「ずーーと真実を話してきた」
という言葉に動かされる。
彼にとっての真実に寄り添うしかない。
死体を姦淫したことも
ドラえもんが出てきたことも
である。
私たちの社会は
父親の母親へのひどい暴力に曝され、苦しんで母が自殺し、
その後はその父親と暮らしてきた中で
元少年がどんな表現力を身に付けることができたかを想像すべきだ。
おそらく、普通に感情を話したり、釈明したり、人の目を見て話したり、そんなことは
出来ないのではなかったか。
反省を表すとして、どう現したら反省していることになるか?!
私たちの社会は
母子を殺し、死体を姦淫した少年を生きて迎えることは出来ない社会なのか!
殺さなければ恐ろしいのか!
と思う。
われわれは一人では生きていないということだ。
一人では生きていないということだ。
人殺しも、社会が受け入れなければならないということだ。
死刑廃止ということはそういうことだ。
社会が受け入れていく、
個人ではなく、
社会が受け入れていくのだ。
そこに個人を譲ることが大事なのではないか?
公共の福祉に個人をいたづらに譲る必要はないが、
罪を犯したものにわれわれの社会のほんの一部を空け渡すことがなくては、
人間の意味がないだろう。
お釈迦様は見ているし、
人間は生まれながらにして罪があり、
そして、善人なおもて往生す、いわんや、悪人をや、である。
憎むべきは権力や権力者の横暴であって一人の人間ではない。