手をつなぐ親の会が50周年の交流会を開催。ご招待を受けて参加。
市議会議長は、「自分が生まれた年にできたんですね、改めておめでとうございます」
とか、私はその年には7歳でしたとか、そんなご挨拶が続きましたが、
驚愕したのは市長のあいさつだ。
昨年の正木議員への攻撃のように、なりふり構わず。
昨年は成人式に議員の悪口を言って、「みなさんどうか市議会の中継を見てください」とかなんとか。
後で与党自民党と野党共産党から「いかがなものか」と注意を受けるほどの暴走模様。
どのような発言かというと
「ぽかぽか広場への障碍者支援施設建設の補助金が、反対者による裁判が起こされ、裁判中ということで東京都の補助金が下りないなどということになるのは何とも納得がいかない。そういう理由だけで補助が下りないというようなことになってほしくない。(2回も同じ主旨の発言)もし補助金が下りなければ、私は今まで積み上げた基金を全部取り崩して施設を建設いたします」
はあ!!??という内容で、聞いていた議員たちは驚愕した。
驚愕しない議員もいたと思う。
鈍感というやつで。
そして、ぽかぽか広場に施設を建設する民間団体の理事長代理が続いてあいさつをして
「市長から力強いお言葉をいただいてうれしい限り」とかなんとか。
3時間の交流会で最も醜い場面。
3時間は腰の痛い高齢者などには苦痛ではないか。
2時間40分にしていただくようにお願いしたい。
ぽかぽか広場を巡ってパークハイム狛江の管理組合と狛江市が裁判中だというのに、
市民の税金で積み立てた財政調整基金とか公共施設整備基金とかを全部取り崩して
補助金も一切もらわずに建設を強行するということだから、驚きである。
確か市長の公約には、補助金などをうまく利用して狛江の財政を楽にするというのもあったはずだ。
手をつなぐ親の会は施設を必要としているのはわかるが、なぜ、マンションの住民が訴訟に踏み切ったのかをその団体から事情聴取すべきではないのか?
管理組合側から面談の申し入れがあっても、断ったままである。
この際、ぜひ、パークハイム狛江管理組合と直に話して、マンション側の住民の話を聞くように行政からも話してほしいと福祉保健部には要請した。
もちろん、建設説明会で周辺住民から浴びせられた「差別のことば」は手をつなぐ親の会の方たちを傷つけるものであったと推察する。
一部の市民と言って済ませるものではないかもしれないが、わたくしがその後接したパークハイム狛江の管理組合の方たちは偏見や差別を表面に表してはいない。
さて、裁判が進行していく中でこのほど市がマンション建設に対して強力な指導をしようとしていたことがわかる「いわば証拠」が出てきた。
三友アパートの関係者であった市民からの提供だそうだ。
市が和泉多摩川駅周辺環境整備計画の計画図面を以って、その会社を訪問した時の議事録が出てきたというのである。図面も残っている。見たらびっくりのものである。これで計画はなかったという市の主張は全くのでたらめだということになる。
榊原助役にI部長、●課長の名前がある。
現在も存命で、決して認知症を発症しているわけではないのに、なぜこの方たちははっきりと証言をしないのか?
狛江市に対して率直に当時のことを述べるべきであるのに、そうしていないし、市も元職員や元助役にヒアリングをしない。これは、公務員としての本旨に抵触する行為である。
わたくしが議会で元関係者のヒアリングをすべきだと主張したが、参与もそれはしないと答弁。
こんな対応では裁判が長引くし、真実を探求しようとしない姿勢は「市に対する不利益をこうむらせる行為」であって、断固糾弾されるべき判断の甘さだ。
当時榊原がどんなにワンマンで、「何かをやろうとしていたか」をさんざん私が議会で忠告していたはずである。
1年前、市原は市とパークハイムコメが交わした建設協定書と変更された協定書を読んだだけで、これらのことが予想できた。だから、ぽかぽか広場でないところに施設建設計画を作れと再三指摘したが、そうしなかった。国の補助金は年々細っていくのに、早く方向転換をすべきだ。
担当は、俺たちは裁判関係ないからとぼさーっと傍観している。
新証拠が出てきて10日もたっているのに、その情報が伝わっていなにのか、あるいは理解力がないのか、
市長が墓穴を掘る発言をしている。
なんて市役所なんだろうか。お子ちゃま集団にはあきれ果てる。
市長は人格が破たんしているのではないかと思われても仕方がない。
「裁判を起こしているグループに、市の情報を運んでおる議員がいる!」と例のごとくだ。
市の中に情報がないんだろう?
細菌戦や毒ガス研究をした731部隊の情報を燃やしてしまったように、(一部はアメリカに提供)
榊原はこの「和泉多摩川駅周辺環境整備計画」とパークハイム建設の時にやった買収や地上げや脅しやもろもろをすべて、矢野ゆたか市長に引き継がなかったのだから。
すべて燃やしたのか、自宅にあるのか、大至急、特別公務員として市に奉職していたのだからすべてを話すべきである。こんなになっても現在の狛江市が事実を知ろうと手を打たないのは、センスがないという前にあきれてしまう。
石井三雄元市長の弟の会社「石井エンタープライズ(既に倒産したのか無くなっている)」が駅前の一等地になる予定のところに住んでいる住民たちの立ち退き交渉をしたとのことだ。
6月に投開票の狛江市長選挙の候補者擁立運動「まちの主人公は市民・オール狛江の会」で
元国立市長の上原公子さんをお呼びしての勉強会。
「戦争法廃止に向けて自治体の首長にできること」と題して。
9.11テロ後の有事法制や国民保護計画の時に国立の上原市長(当時)が国に質問を出しているということをニュースで聞いていたが、その時の話と住基ネットを切断した時の話が中心になった。
この憲法の本は上原さんが議場で常に携帯して議会答弁の際、参照していた本。
生活者ネットワークの市議会議員を1期務めて、後輩を育てて議員を二人にして、自分は市議をやめていた4年間に
国分寺の憲法学校(久野収氏が主宰)に通っていた時のものだそうだ。
また、その時にまちづくりの問題、景観問題の勉強会をしたりして、まちの課題は何かを見つめ、ネットワークを広げていたそうです。
市長になってすぐに景観問題、そのくだりは長いので省略。
そして、イラク攻撃が始まった。
有事法制で国民保護計画を各自治体が作らなければならないとされたときに、国民の避難を自衛隊が誘導するという法律を自民党が作ってきた。
その内容はジュネーブの人権協定に反するのではないかという内容のを中心として質問を国に出して、
総務省内閣府を困らせた。
その時の相手が磯崎陽輔氏。
法的安定性は関係ないと国会で答弁してしまった閣僚の方です。
自治体の長が発信することは大きい、様々なことができる、地方自治から国に意見を言うことの意味はある
と上原さんはおっしゃった。
住基ネットは最高裁まで行って勝った。
住基ネットは漏れるかもしれないとの大阪高裁の判決があるから
マイナンバーを個人には強制できない法律体系となっている。
暮れの高裁の上原スラップ訴訟判決は、もしかして権力側の、圧力だったのかもしれないと大いに思った。
上原さんの狛江の市長になってもらいたいものである。
そう思いませんか?!!
マイナンバー制度。なんか心配な方、たくさんいらっしゃると思います。拒否する権利はあるのか、不利益はこうむらないのか、など、専門家のお話しを聞いて考える会を開催します。2月13日(土)午後6時30分。小田急線狛江駅北口1分。泉の森会館にて
1月1日から施行されたマイナンバー制度。昨年11月から番号通知カードが届き、その中に入っている申請用紙に写真をつけて申し込むと「マイナンバーカード」がもらえるわけだが、
番号は書かない、
カードは持たない、
通知カードはタンスの中にしまっておく
を推奨したい。
というのも、
番号を書けばその認証が必ず必要になる、
で、あなたはだあれということになる、
書いた本人に対してあなたはだあれという制度なんて
そもそもおかしいでしょう!!
裏を返せば、番号さえ書けばよいのか、それを証明するカードさえあればよいのか
という社会になる・・
と私は思って反対してきた。
私と同じように思わなくてもよいが、心配だと思う。
個人情報は?何が知らせてしまうの?誰に知られてしまうの???
それで、専門家に話を聞いて考える会を開催いたします。
ぜひ参加してください。
政務活動費を使って開催いたします。
いつもブログを読んで下さりありがとうございます。
双方向の機能を生かそうと、コメント欄を設けてきましたが、
最近、同内容のコメントを多く投稿される方がいらして、
ほかの方のコメントに気が付かない場合もあったようです。
しばらくコメント欄を閉鎖したします。
ズラリ並んだ恵方巻き(狛江駅前の小田急OX食品売り場)
ちなみに私は、小田急OXの恵方巻と「マグロびと」の恵方巻の両方を買い求め娘と夫とで食しました。
我が家のブロック塀にとまった「○○シジミチョウ」。カタバミを食草とするので我が家ではいわゆる雑草を抜かないようにしてます。
72名の参加で盛会でした。
「ドキュメンタリー映画9条を抱きしめて」も大変良かった。
ネルソンさんが18歳で海兵隊員となってベトナムで戦い、帰還後はPTSDで家族からも遠ざからなければならなくなり、ホームレスに。街で高校の同級生で小学校の先生をしている女性にこえを掛けられ、学校で戦争体験を話すことになる。そこでいろいろ話した後、子どもから発せられた「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか」という質問にそれまで平静を保ってきたネルソンは崩れてしまう。しかし、子どもたちが駆け寄ってきてネルソンを取り囲み慰めてくれる。そんな経験が彼を少しづつ立ち直らせて「本当の戦争とはどんなものか」を語る活動を始めて、日本に1年のうち半分滞在するようになった。そかし、ベトナムで浴びた枯葉剤が原因と思われる多発性骨髄腫で62歳で亡くなる。骨は京都のお寺に埋葬されているそうだ。
日本人は第2次世界大戦後、帰還して心を病む人も多かったろうが、それほど聞かない。日本人の戦争責任や戦争体験を突き詰めない国民性と言われるかもしれないが、最近思うのは、今まであまり考えつかなかったが、憲法9条があったことは大きいのではないか?9条で丸懺悔したともいえるが、平和になって戦争を考えないで済む暮らしが曲りなりにも始まったことは大きかったのではないか?
9条に救われて、9条のお蔭で繁栄をしてきた日本を改めて認識すべきだと、改憲護憲を言う前に、言いたいとこのドキュメンタリーを見て思った。
菱山さんのお話は、私が記録かかりなのでこれからまとめて後日ブログにアップしたいと思う。